2026.10.02 [みそまろコラム]
お味噌で旅する日本列島〜仙台編(後編)〜
まいどおおきに。みそまろです。ぺこり。さて、前編でご紹介した日本初のお味噌工場「御塩噌蔵(おえんそぐら)」から生まれ、戦の場でも「変質せず長持ち」するという驚異のクオリティと、圧倒的な「美味しさ」で江戸の市場をまたたく間に席巻した仙台味噌。
しかし、一大ヒットブランドとなり、莫大なお金が動くようになると、今度は地元の職人や商人たちの間で「持続していくためのルール作り」や、時代の変転に伴う様々な課題が巻き起こるようになります。
前編の華やかな大躍進の裏では、激動の時代を生き抜くための職人たちの組織づくりと、東北の厳しい現実を救った仙台味噌の知られざる感動のドラマがあったのです。

時代の波を乗りこなせ!職人たちが進化させた「味噌醤油仲間」と「仲間掟」
1601年の仙台城築城とともに、伊達政宗公は城下町を大々的に整備し、各地から商人や職人が集まってきました。 当時の仙台藩では、穀物、糀、絹布など特定商品の独占販売権が認められており、商人や職人たちは共同の利益を守るために「株仲間」という組織を作りました。
仙台藩のお味噌業界でも、元禄年間(1688〜1704年頃)にはすでに「味噌仲間(後に味噌醤油仲間)」が結成されていたことが当時の史料に残されています。最初は、メンバー同士の親睦や価格協定などを主な目的としてスタートした、のどかなものだったようです。
しかし、「仲間」は、一般の商人や職人らと同じ「町方(まちかた)」として扱われ、藩の司法や行政を担う町奉行所の厳しい支配を受けます。例えば、原材料の価格が高騰して味噌の値段を上げざるを得ない場合。勝手に値上げはできず、「こういう理由でいくら値上げしたい」という文書を町奉行所に提出し、厳しい審査を経てようやく許可されるという、現代の企業顔負けの厳格なシステムが作られていきました。
そのうち、仙台味噌の人気が全国区になり、経済情勢が目まぐるしく変化していくにつれて、組織のルールである「仲間掟(なかまおきて)」もどんどん厳しく変化していくことになります。
例えば1834年の「仲間掟」では、以下の規約が14条にわたって厳格に定められていました。簡単にまとめますと、こんな感じです。
- 【加入の規約】 誰でも簡単に新店を出せるわけではなく、組合への加入ルールを厳格化。
- 【品質の吟味】 仙台味噌のブランドを落とさないよう、品質チェックの規定を導入。
- 【雇用の協定】 職人の引き抜きに関するトラブルを防ぐための雇用ルールを策定。
これらに違反した者への「罰則」までもが設けられるようになりました。ここには「みんなでルールを守り、高級ブランドとしての仙台味噌を守り抜こう!」という職人たちの熱いプライドと誠実さが詰まっています。
大豆を蒸し煮したあとに荒く砕いて粒味噌とする特徴を守り、じっくり時間をかけて塩をなじませる完熟製法を貫く――。 この職人たちの自立的なルール作りと、藩によるバックアップがあったからこそ、仙台味噌の圧倒的な品質は時代を超えて保たれ、その名声はさらに不動のものとなっていったんですね。
隣藩の大ピンチを救った、仙台藩の圧倒的な「備蓄力」と心意気
こうして地域一丸となってクオリティを守り抜いた仙台味噌ですが、この仙台藩に住まう人々の驚異的な「お味噌の備蓄量」と、それを惜しみなく差し出す懐の深い心意気が、のちに隣の藩の数万人もの命を救うという、歴史的な感動ドラマを生むことになります。
江戸時代、寒冷な東北地方は、たびたび深刻な天候不順による大凶作(飢饉)に見舞われました。ひとたび飢饉が起きると、町には餓死者が出たり、疫病が流行ったり、盗人が横行するなど、悲惨な社会現象が引き起こされてしまいます。特に、天保の大飢饉(1833年〜1839年)にて最も悲惨な大打撃を受けてしまったのが、お隣の南部藩(現在の岩手県中部〜北部、青森県東部など)でした。
1836年、あまりの飢えに耐えかねた南部藩の農民1,010人が、生きるためのお米とお味噌を求めて、集団で大規模な一揆を起こします。自分の藩にいくら訴えても救われないと悟った彼らは、命がけで国境を越え、仙台領の「相去(あいさり)村」へと押し入り、救済を訴え出たのです。
よその藩から千人もの一揆勢がなだれ込んできたのですから、普通なら武力で追い返されてもおかしくない大事件です。しかし、比較的秩序の取れた集団だったためか、仙台藩の対応は寛大でした。なんと彼らを数ヶ月にわたって、毎日2回の味噌汁ご飯を提供してその命を繋ぎとめたという記録が残っているのです。この時供与されたお味噌は、仙台藩が相去村の農家や地元の豪商から買い上げたものでした。
さらにドラマは続きます。それから17年後の1853年(嘉永6年)、今度は南部藩からなんと「1万余人」もの農民が一斉に国境を越え、仙台領へと逃げ込んできたのです。
実はこれ、飢饉ではなく、重税と藩の暴政に耐えかねて発生した「三閉伊一揆(さんへいいっき)」という日本最大級の百姓一揆でした。限界を迎えた農民たちは、困窮を意味する「小〇(おまる)」の旗を掲げて南下し、「自分たちを仙台藩の領民にしてほしい」と命がけの直訴に踏み切ったのです。
ちょうどペリーの黒船来航で日本中が騒然とする中、町が一つ消えるレベルの避難民を前に、仙台藩はどうしたのかというと…なんと、この時にも彼らを温かく受け入れたのです。そして、彼らを救うために緊急で用意した物資の量は、凄まじい規模でした。
史料に残された数字は、「玄米 277石余(約41.5トン)、味噌 1,110貫余(約4.16トン)」。
お味噌の量だけでいうと、なんとお味噌汁約27万7,500杯分! 避難してきた1万余人もの人々が、毎日欠かさず飲んだとしても、なんと約1ヶ月近く(約28日分)も賄えるという、とてつもない量です。仙台藩はこれほどの大量の物資を気仙郡の13の村々(お味噌はそのうち特定の8つの村)からから買い上げ、隣国の農民たちに惜しみなく振る舞いました。
この手厚いサポートを受けながら、農民たちは粘り強く交渉。幕府に大失態を知られたくない南部藩は、最終的に農民側の要求をほぼ丸呑みし、指導者も処分されないという、日本の農民運動史上きわめて珍しい「完全勝利」を収めました。
歴史に名を残す民衆の勝利の裏には、大混乱の中でこれだけの備蓄を即座に動かした仙台藩の圧倒的な経済力と、「困った時はお互い様だ」という懐の深い人情の力があったのですね。
「お味噌は生命の糧」家庭に根付いた究極の命の防衛策
なぜ、仙台藩にはこれほどまでに大量のお米や、人助けできる量のお味噌がストックされていたのでしょうか?その最大の要因は、度重なる飢饉の教訓から生まれた、官民一体の「備蓄システム」にありました。
天明の大飢饉(1782年〜1787年)以降、食糧貯蔵の重要性を思い知った仙台藩は、各村々に「備荒倉(びこうそう)」という、万が一の凶作に備えるための公的な防衛倉庫を設置し、米や麦、大豆を厳重に貯蔵させました。
さらに素晴らしいのは、藩だけでなく、一般の家庭にいたるまでその意識が徹底的に染み込んでいたことです。仙台の町家や農家では、お米や雑穀の貯蔵はもちろんのこと、どの家でも「数年分のお味噌」を常に準備しておくことが当たり前になっていました。
当時、仙台地方では「味噌も満足に造れないようでは、家運が傾いた証拠」とまで言われていたそうです。つまり、お味噌をたっぷり仕込んで蓄えておくことこそが、家のステータスであり、何があっても生き残るための最大の財産だったのです。お米と並び、お味噌は文字通り、人々の「生命の糧」そのものでした。
伊達政宗公の壮大な野心とおもてなしの心から始まり、職人たちのプライドによって経済の荒波を乗り越えるブランドへと磨き上げられ、やがては飢えに苦しむ数万人もの命を救う最強のお守りとなった仙台味噌。
1日中食べなくても飢えを感じさせず、体を芯から守り抜く「サバイバル食品」としてのお味噌の計り知れないパワーは、ストレスや忙しさにさらされながら現代を生きる私たちの心と体を整える力にも、そのまま真っ直ぐに通じる気がします。
遥か江戸時代の、仙台の人々の温かい心意気と歴史に思いを馳せながら、今日も温かい一杯のお味噌汁で、お腹の中からほっこりと自分自身を労ってくださいね。

※女将へのお土産は創業安政元年から本場仙台味噌を作り続ける
株式会社佐々重さんの「本場仙台味噌(粒)」にしました!
1854年創業ということは、172年も続けておられる会社さんです。
「ごえんそ味噌(荒漉)」という商品もあり、こちらは
御塩噌蔵で仕込まれた味噌と同じ仕込みをした味噌だとか。
これもいつか食べてみたいものです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。 また次のお椀の旅でお会いしましょう。
参考図書:
味噌大全 監修渡辺敦光 東京堂出版
みそ文化誌 全国味噌工業共同組合連合会 社団法人 中央味噌研究所





