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2026.08.07 みそまろコラム

お味噌で旅する日本列島〜仙台編(前編)〜

まいどおおきに。みそまろです。ぺこり。

日本各地に息づくお味噌の歴史や、その土地ならではの文化をめぐる「お味噌で旅する日本列島」シリーズ。北海道編津軽編に続く第3弾の舞台は、歴史とロマンが今なお色濃く残る東北の雄、宮城県は仙台です!

 

現代でも「仙台味噌」といえば、風味豊かな赤味噌の代表格として全国の食卓で愛されています。すっきりとした塩味の中に、じっくり熟成された奥深いコクと香りが広がる仙台味噌。実はこのお味噌のルーツを深くたどっていくと、あの誰もが知る超有名戦国大名、伊達政宗公の壮大な天下取りの野心と、驚くべき「お味噌へのこだわり」に突き当たるのです。

 

今回は、知れば知るほど面白い仙台味噌の誕生秘話から、全国を席巻するまでの大躍進の歴史を、前編・後編にわたって大ボリュームでじっくりと紐解いていきたいと思います。

 

戦国武将にとって、お味噌は「命がけ」の最強サバイバル食品だった!?

 

今でこそ、日々の健康や美容などのために親しまれているお味噌ですが、戦国時代の武士たちにとっては、単なる調味料ではありませんでした。それは自軍の強さを左右し、兵士たちの生死を分ける「命がけの兵糧(ひょうろう)」、つまり最強のサバイバル食品だったって、ご存知ですか?

 

当時の戦場においていかにお味噌が重要だったかを伝える、こんな書物が残されています。『前橋旧蔵聞書(まえばしきゅうぞうききがき)』という史料の一節です。

 

「焼き味噌を湯に立てて呑候へば、終日食物仕らず候ても少しも飢へざるものに候」

「味噌は息合に能く候」

 

これを現代の言葉に分かりやすく読み解くと、「焼き味噌をお湯にサッと溶かして飲めば、丸一日まともな食事をしなくても、少しも飢えを感じることがない」「激しい戦いによる息切れや疲労の回復にも、抜群に良いものである」という意味になるそうで。

 

果てしない行軍や命がけの戦が続く場において、手軽に塩分と良質なタンパク質を補給でき、体を芯から温めて体力を急速に回復させてくれるお味噌は、まさに現代でいう「高機能エナジードリンク」のような存在だったのでしょう。お味噌をどれだけ上質に、大量に用意できるかが、軍隊の強さに直結していた時代だったというわけです。

 

出兵先でも変質しない!驚きの品質が証明された瞬間

 

そんなお味噌の圧倒的な重要性を見抜いていたのが、仙台藩の初代藩主である伊達政宗です。政宗公といえば、武芸や学問はもちろん、和歌や漢詩といった文芸にも一流の見識を持っていた、いわばハイパーマルチクリエイター。さらに、自ら厨房に立って包丁を握り、おもてなしのメニューを自ら考案するほどの、歴史上きっての「超がつく食通」でもあったそうです。かっこよすぎませんか。

 

その仙台のお味噌の実力が明らかになったのは、1593年(政宗公満26歳)の豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵(文禄の役)でした。

 

日本各地から集まった諸大名たちは、兵糧としてそれぞれ地元のお味噌を携えて海を渡りました。しかし、戦地は過酷な夏の炎天下。他藩のお味噌は次々と腐敗してしまい、使い物にならなくなってしまったのです。

 

ところが、伊達家が携行したお味噌だけは、夏の暑さの中でも一切変質せず、美味しさをそのままキープしていたのです!これには周囲の武将たちもおおいに驚きました。瞬く間に大評判になり、他藩の武将たちから「そのお味噌を分けてくれ」と請われるほどだったそうです。

 

この戦場での評判こそが、のちに誕生する「仙台味噌」という一大ブランドの、偉大なる最初の一歩となりました。この出来事を経て、政宗公のお味噌への情熱はさらに加速していくことになるのです。

 

 

天下を狙う希代の野心家・伊達政宗が作った「お味噌ファクトリー」

 

政宗公といえば、豊臣政権下ではきらびやかな衣装で度肝を抜く外交を繰り広げ、徳川の世になっても決して天下取りの野心を諦めなかった、スケールの大きな男であったことは多くの方がご存知かと思います。お洒落な男性を指す「伊達男」という言葉も、彼の粋で華やかなファッションや自己プロデュース能力が語源となっていますよね。

 

そんな彼の町づくりは、1601年(満34歳)、それまでは東北地方の小さな村にすぎなかった「千代(せんだい)」の地を選び、青葉山に城を築いて「仙台」と改名したところから始まります。「仙人が住む郷のように理想的で、千代に八千代に栄え続ける都にする」という、彼のビジョンが込められた地名です。ここから壮大な町づくりが始まりました。政宗公のリーダーシップにより、各地から商人や職人が集まり、仙台は東北最大級の華やかな城下町へと急成長を遂げています。

 

この町づくりの一環として、万が一の籠城戦(お城に立てこもる戦い)に備え、政宗公はお味噌の備蓄と量産のために並々ならぬ情熱を注ぎます。仙台城下に「御塩噌蔵(おえんそぐら)」と呼ばれる、日本で最初のお味噌専用の醸造所を建てたのです。

 

お味噌は精進料理の一貫としてお寺で作るのが一般的で、まだまだ「自家製味噌」が少なかった時代に、藩の公認組織として生産するシステムを作ったこの試みは、現代の食品工場の先駆けとも言える画期的なことでした。ただしそこで作られるお味噌は「御用味噌」と呼ばれ、あくまでも城内で消費され、備蓄されるものだったようです。

 

江戸の町を虜にした、こだわりの仙台味噌

 

1600年(満33歳)に天下分け目の戦いと呼ばれる「関ヶ原の戦い」にて徳川軍が勝利をおさめ、1603年に徳川幕府が開かれます。諸大名が軍資金を貯めないように、また忠誠心を持たせるようにするための「参勤交代」が有名ですが、実は豊臣政権のころから、政宗公は誰よりも早く、自発的に江戸へと参勤していました。豊臣秀吉の死後、次の覇者となる徳川家康に急接近し、伊達家を生き残らせるため、そしてのちの徳川幕府に対して「私は絶対に裏切りませんよ」という忠誠心をアピールするためです。

 

仙台藩の公式記録『伊達治家記録(だてじけきろく)』などから推定すると、なんと少なくとも1,500人〜2,000人以上という、他を圧倒する大軍勢を引き連れて江戸に入り、早くから江戸に屋敷(藩邸)を構えていました。

 

そんな大集団の食事を満足いくものにするため、江戸の藩邸でも故郷の味を再現しようと、早くからお味噌の自家醸造を行っていたようです。原料の米や大豆, 塩, 麹にいたるまで、すべて海路で仙台から江戸へと移入していたというから、驚きのこだわりですよね。

 

やがて1635年(満68歳)に「武家諸法度」によって参勤交代が正式に義務化されると、江戸の藩邸に常駐する藩士たちの数は一気に3,000人〜4,000人規模へと膨れ上がります。これだけの大所帯の胃袋を支えるため、藩邸内にはさらに規模の大きなお味噌専用の「御塩噌蔵」が建てられることになりました。

 

この藩邸内で造られる「仙台味噌」は、やがて屋敷に出入りする商人や他藩の大名たちの間で「伊達殿のところの味噌は格別にうまい」と噂になったのか、少しずつ江戸の町で評判を呼ぶようになっていきます。

 

このじわじわと高まる人気を受け、2代藩主・伊達忠宗の代になると、ついに江戸の民間へ払い下げ(販売)することを決めます。江戸の市場になだれ込んだ仙台味噌は、あっという間に江戸っ子たちを虜にし、またたく間に大量流通する大ヒットブランドへと成長しました。このお味噌の売上は、仙台藩の財政を大きく潤す重要な一大ビジネスとなったのです。

 

実は、この時にお味噌が造られていた仙台藩の下屋敷跡(現在の東京都品川区東大井)には、その歴史を今に伝える場所があります。屋敷内の味噌蔵の跡地を引き継ぎ、現在も同じ場所で営業を続けている「仙台味噌醸造所」です。ここでは、政宗公がこだわり抜いた極上の味わいが、400年近く経った令和の今もなお、息づき、愛され続けているのです。

 

小さな村のサバイバル食品から始まり、政宗公のこだわりによって日本初の工場生産システムを経て、ついに大都市・江戸を席巻した仙台味噌。

 

しかし、お味噌が一大ブランドとして売れまくり、大きな経済の波が生まれると、今度は地元の職人や商人たちの間でも「持続していくためのルール作り」や、時代の変転に伴う様々な課題が巻き起こるようになります。さらに、その裏には東北の厳しい現実も待ち受けていました。

 

そんな仙台味噌を取り巻く次なる波乱のストーリーは、続く「後編」でたっぷりとお届けします。どうぞお楽しみに!

 

参考図書:

味噌大全 監修渡辺敦光 東京堂出版

みそ文化誌 全国味噌工業共同組合連合会 社団法人 中央味噌研究所